2012年3月28日水曜日

コミュニケーションは誤解を解くことが肝要

最近色んな人と喋っていて気付いたのだけれど、コミュニケーションを円滑に進めるためには、「いかに早期に誤解を解くか」が肝要なんだと気付いた。

前提を間違えた結論は全て偽

論理学において、前提が偽であるならば、結論は常に真だけど、現実においてこれは誤りで、現実では前提が異なっているならば、得られた結論は全てニセモノであると考えるのが正しい。
他人と議論を進める場合、前提を確認した後、議論を展開していくのだけれど、前提を間違えて議論を展開した場合、殆どの場合結論は合致しないのだけれど、稀に合致したとして、それは合致とは言えない。だって前提条件が違うんだから。
例えば、「TPPは推進するべき」という結論で合致したとして、片方が「日本の農業は強い、だから開放しても安心だ」という前提に立っていて、片方が「日本の農業は弱い、だが更に手厚い補償をするので安心だ」という前提に立っていたとすると、結論は同じでも、思考の過程が全く違ったものになる。
簡単な議論ならいいけど、複雑な議論になるにつれ、前提が違っているとなると、意味が無かったものになるコミュニケーションの量が膨大になる。早い段階で軌道修正を行わないと、進めていったところで、やっぱり前提が違いましたね、戻りましょう、となると、それは膨大な時間の消費になる。

では、どうやって議論の道筋が正しい、つまり誤解の無いことを確認すればよいのか。

理解は自分自身の言葉によってしか生まれない

「レジデント初期研修用資料~~医療とコミュニケーションについて~~」という書籍に、以下のような記述が存在する。以下引用する。

理解というものは、最終的に「主治医から押し付けられた見解の型枠を、自分の言葉で満たす」作業として完成する。 資料「レジデント初期研修用資料~~医療とコミュニケーションについて~~」58頁

これは医療の現場以外にも通じると僕は考えていて、これは一般化すると「聞き手の理解は『話者によって話された内容を、聞き手の言葉で満たす』という作業として完成する」こととなる。
話された後、「分かった」「なるほど」で終わってしまう人ほど、何にも理解していなくて、「それはつまり~~ということですか?」「要するに~~ということですか?」と返し、了解が得られた時は、かなりの確率で安心出来る。
なので、区切りの良い所で、相手に理解した内容を語ってもらうのが、恐らく一番良い策になる。
もっと言えば、あえて質問が起こるように、説明をやや舌足らずにするのが、意外にも良策であるのかもしれない。
分かり易い説明は、質問の必要性を奪ってしまうから。

現実の運用

しかしこれを現実の世界に適用するとなると、また勝手が違う。
このような慎重なコミュニケーションが必要な状況というのは、顧客への説明だとか、上司への報告だとかになるが、基本的に社会人は時間がない。ぐだぐだと舌足らずな説明を行い、質問させようとすると、途端に無能の烙印を押され、二度と会話してくれなくなること請け合いである。
現実的な運用方法としては、誤解がなされていると思った段階で説明を加えつつ、話の最後に、箇条書きのような調子で確認し、念の押す、といったところが関の山だろう。
ここで重要なことは主張のコンポーネント化になる。
自分の言いたいことを、「前提」「思考過程1~n」「結論」というピースに分け、箇条書き形式にすることで、聞き手の理解をスムーズにする。

長々と書いてみたけれど、やっぱり、頭の中で考えたことを現実に適用するのは難しいな、という結論に至った。
現実の運用についてはもう少し追記したいこともあるのだけれど、それはまた今度の話。

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